連続児童殺傷事件。それが起きた日のことをはっきり覚えている。金曜日、会議の帰りに京都新聞の号外で知った。 犯行そのものは許されないし、親のことを思ったらこれ以上の悲しみはない。 26日は、生きることの大切さをしっかり聞いてきたところだ。 残酷な人、異常な人。犯人をそういう人にしてしまっていないだろうかと思う。この事件に限ったことではない。 信じられない事件がおきているいるけど、残念ながら、それは人間が起こしたことだ。同じ人間とは思えないくらい、いいことをする人もいれば、同じようにひどいことをする人もいる。でも、本来、人は残酷でひどいものだと思う。それを社会化されるなかで、そぎとっているだけだと思う。
ニュースで「名門の小学校をおそった」と言っている。 あの小学校へ入学させたのは、親の意思だろう。そういうことへの嫉妬は、わたしにもある。 でも、わたしが最初にノートルダムへ行ったときに、確信したことがある。人は平等ではなくて、住む世界が違う人がいるということを、身をもって知った。 だからといって別に自分がそうなりたいとは思わなかった。でも、そういう「名門」に入れる親への嫉妬のようなものがやはりある。あの子たちは、わたしがノートルダムで感じた違和感をもった子たちだ、と思った。 子どものせいでない。親なのか、その親の住む世界への嫉妬だと思う。
わたしは、とっても不器用に生まれてきて、何やってんだかと思うことばかりだ。 最近になって、少しはこれでやっていこうと思えることも多くなったが、こういう事件を契機にいろんなことを思ってします。 あんまり深く考えると、どうしようもないので、あまり考えないほうがいいのかもしれない。 |
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