どういう理由であっても、小さな子どもの死は悲しい。 子どもに限らず、人間の死は悲しいけど。 でも、虐待で殺される子どもって、やっぱり辛い。 どうにか助けられなかったのやろうかと。
一方で大事に育てられる子どもがいる。 わたしが住む近くには、私立と国立の幼稚園、小学校があって、その送り迎えに電車を使っている親子をよく見る。 また、年が明けると面接にきている若い両親と子どもの姿を見る。 公立の学校しか縁のなかったわたしには、やはりそこに羨望がある。 羨望というより、それを通り越した揶揄がある。 私立や国立の付属へ行く子と、公立に行く子。 そこには明らかに階層がある。 それにもかかわらず、人間は皆、平等などといわれる。 平等なんてありえない。 生まれたときから、その階層のなかで生きるしかない。 いわゆるサラリーマンは、その階層をとっぱらったところにあるのかもしれないけど、でも、高学歴となると、やはりその階層とリンクするところもあるので、やはり階層社会だと思う。
これってコンプレックスなんかなー。 行けないもの、ないものねだりのもの。 前にも書いたけど、小学校に乱入した犯人が、その学校の子どもを狙ったというところに、そういうひねくれた気持ちがわたしにもある。 被害児童の親をみて、自分たちの子どもは選ばれた者と思っているのではないかと、そんなことも思った。 子どもを亡くした親に対して、ひどいということはわかっている。 それでも、そんなふうに思った。 でも、そうやって付属の学校に行く子どもたちもいて、社会は構成されているんやと思う。
親戚の子たちが、私立の学校へ行ったのをみて、それって「家」の違いやなと思った。 この子たちは公立には行かれへんって。
結論はないけど、その後、わたしがノートルダムへ行ったことも、こういう考えに拍車をかけたと思う。 行くんじゃなかったよなー。 でも、すぐに中大に行ってたら、それはそれで頭の悪さでコンプレックスをもつことになったと思うから、ノートルダムでよかったような気もする。 |
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